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青木 盛治【前編】 青木 盛治【前編】

CREATOR’S
INTERVIEW #003

青木 盛治

ページ

代表作:『ボーダーブレイクシリーズ』『シャイニング・フォース クロスエクレシアシリーズ』(プロデューサー)、その他担当作『AFTER BURNER CLIMAX』等

トップスペシャルコンテンツCREATOR`S INTERVIEW #003

ページ1/2

  • CHAPTER 1
  • CHAPTER 2
  • CHAPTER 3

CHAPTER 1

インテリアデザイナーになりたかった学生時代

-どんな幼少期を過ごされていましたか?

1973年、丑年生まれ、うどん県出身です(笑)。小さいころは山と海に囲まれた自然のなかでのびのびとすごしました。本格的にゲームに触れたのは小学6年生の終わりごろ、クリスマスプレゼントでファミリーコンピュータを買ってもらったのがきっかけでした。その時期はソフトが品薄だったので欲しいソフトは手に入らず、本体と同時購入できたのは『ピンボール』だったと思います。
中学生になると部活動の帰りによくゲームセンターに行くようになって、『スーパーバレー’91』というタイトルにハマってました。このゲームはコートを真横から見た視点でプレイするゲームで、当時としては選手の動きが非常にリアルで魅力的でしたね。中学校ではバレーボール部に所属していたので、練習帰りに部活仲間とプレイして、部活でもゲームでもバレーボール漬けの日々でした。ちなみに、家ではスーパーファミコンやニンテンドー64で遊んでいました。セガのゲーム機は一切持っていなかったです(笑)。

-ゲームクリエイターになろうと思ったきっかけは?

学生時代はインテリアデザイナーを目指していて、そのために中学・高校時代では絵画教室やデザイン専門学校に通ってデザイナーに必要な基本的なスキルを学びました。大学時代ではMacを使ってクラブやイベントのフライヤー制作やDTP(デスクトップパブリッシング)制作などをアルバイトで経験、そこでデザインを仕事にすることの楽しさを知りましたね。その時はゲームに携わる仕事をしようとはまったく思っていませんでした。
就職活動では、当時セガの親会社だった株式会社CSKの1社のみ受けました。この会社を選んだのは、当時CSKにあったCG事業部で働きたいと思ったからです。このCG事業部では、NHKのテレビ番組で放映される最先端CGを作っていたのですが、当時はCGがいまほど当たりまえの時代ではなかったので、時代の先駆けで華やかに見える業界でしたね。
ところが入社したら、「CG事業部はなくなった」と言われまして(笑)。CSKは基本的にシステム開発の会社なので、その後はシステムエンジニアの勉強も兼ねて、1年間はプログラマーとして働いていました。なぜかこの時期の記憶はあまりないですね……(笑)。

-そこではデザインの仕事はされていたのでしょうか?

VB(ビジュアルベーシック)を使ってGUI(グラフィカルユーザーインタフェース)を少し担当したくらいです。この1年間でコンピュータやWindowsについて勉強できたので、ある程度は詳しくなりました。でも、やはりCGやデザインの仕事に携わりたかったので、人事部に掛け合い、グループ会社のCSK総合研究所(CRI)を紹介してもらいました。当時、CRIはセガサターンやPCのゲームを作っていたので、すぐに出向を希望しました。ここからゲーム業界へ足を踏み入れることになります。

CHAPTER 2

ブランディングで強みが活かせる
プロデューサーに!

CSK総合研究所に出向後、いちばん初めに携わったのがセガサターンの『機動戦士ガンダム ギレンの野望』(1998年)です。そこでデザイナーとしていちから仕事を始めました。デザイナーとしては下っ端ですので自分専用のPCは用意してもらえず、朝から晩までサンライズから届いたセル画をスキャンするだけの簡単な仕事をしていました(笑)。当時のスキャナーはあまり精度が高くなかったので上手にスキャンができず、リップシンク用の口がずれては先輩に何度も怒られた記憶があります。
初めてゲームの仕事に携わり、また、作品が親しみのある『機動戦士ガンダム』だったということもあり、ゲーム作りの楽しさ・面白さを知りました。その後、デザイナーとして本格的に参加したのは、ドリームキャストのロンチタイトルだった『エアロダンシング featuring Blue Impulse』(2001年)ですね。当時の開発は人数が少なかったので、2D、3D、アニメ―ション、エフェクト、パブリシティといったほとんどすべてを担当させられる無茶振りでした(笑)。いまになって思えば、そんな無茶振りから得たさまざまな経験はとても貴重で自身の資産になっていますね。そんな『エアロダンシング』がシリーズを重ねるごとに、デザインチームの管理を任されるようになり、『エアロダンシング4』(2002年)の時にはリードデザイナーとして携わりました。

その後、CRIとSEGA-AM2が一緒になり、プレイステーション2版『バーチャファイター4 エボリューション』(2003年)に携わることになります。その経験をもとに、次はアーケード版の『バーチャファイター4 ファイナルチューンド』(2004年)、そしてこの作品がきっかけで、以降アーケードゲーム『Quest of D』(2004年)や『AFTER BURNER CLIMAX』(2006年)の開発に携わるようになります。
そして2006年には、現在プロデューサーを担当している『ボーダーブレイク』にリードデザイナーとして参加することになりました。『ボーダーブレイク』ではプロモーションや2次商品化などのタイトルブランディングとリードデザイナーを兼務する立場でした。その経験もあってプロモーションにも強くなりましたね。その後、2014年には『ボーダーブレイク』から一旦抜けて『シャイニング・フォース クロスエクレシア』シリーズのプロデューサーを務めました。そして2015年に再び、今度はプロデューサーとして『ボーダーブレイク』シリーズに戻り、いまに至るというわけです。

-『ボーダーブレイク』シリーズのプロデューサーに任命された時どう思われましたか?

『シャイニング・フォース クロスエクレシア』シリーズをしっかりプロデュースできたという評価だと思いました。それまでの業務で培ったノウハウが活かされたのだと思います。プロデュースの仕事というのは、いかに商品をユーザーに魅力的に見せるか・提案できるかがメインジョブだと思っています。人はまず、商品を見るときに映像や画像の視覚情報がパッと入ってきますよね。こういったファーストインパクトに重きを置くという発想は、デザイナーとしての経験が活かされていると思います。
また、プロデューサーというのはタイトルの責任者であると同時に、”そのタイトルをどうブランディングしていくか”という使命も課せられていると思っています。

CHAPTER 3

ユーザーに喜んでもらえることが
モチベーションに繋がる

-『ボーダーブレイク』の広報キャラクター”牛マン”について教えてください。

説明しましょう!”牛マン”とは、牛の角、牛柄の服、赤いマフラーを付けた『ボーダーブレイク』の広報キャラクターです。って、真面目に解説するのは初めてなので恥ずかしいですね(笑)。
“牛マン”が誕生したきっかけは、開発ロケテストの告知のためのディザーサイトでブログを始めたときの署名でした。『ボーダーブレイク』が稼働した2009年の干支と、私の生まれ干支の”丑(牛)”から、3秒ぐらいで決めた名前でしたね(笑)。いまとなってみれば、「ぎゅうまん」と読み間違えられることもあるので、平仮名で「うしマン」が良かったかなと反省しているぐらい、その時は安易に命名しましたね(笑)。
ブログ以外でももっと多くの方に『ボーダーブレイク』の魅力を伝える方法がないかと模索していたときに目をつけたのが、流行りつつあったTwitterでした。当時のSNSはそれほど盛んではなく、弊社にも公式アカウントがない状態でしたが、Twitterには可能性を感じたので、誰かに許可をとった訳でもなく(社内にそういう文化がなかったこともあり)”牛マン”という名前で公式Twitterを始めました。
当時はSNSに対するレギュレーションやルールが定まっておらず、好き勝手につぶやいては、よく社長室からお叱りのメールが飛んできました(笑)。セガの公式アカウントとしては私がいちばん早かったはずです。当時はユーザーから広報の人だと思われていましたね。

- “牛マン”のような活動を自らされたモチベーションはどこから生まれたのですか?

私は本来そういった表に出るような性格ではなく、じつはは苦手だったりします。というと「うそだー」なんて周りからは言われますが、本当なんです(笑)。”ユーザーは何を求めているのか”に対する答えを考えて提案していくこと、つまりはユーザーと開発者の”共創”がモチベーションに繋がっていると思います。その結果、『ボーダーブレイク』が盛り上がり、「『ボダ』は面白い」、「『ボダ』はいいぞ」と言っていただければ最高に幸せですね。
アーケードゲームの強みとしては”場所があること”だと思います。その場所をきっかけにユーザー同士や開発者との距離が近づき、ユーザーから生の声が聞けたり、ライブ感を共有できるという点がモチベーションですね。”作ったものを喜んでもらえて嬉しい”という感情はデザインの仕事とも共通していると思います。

-普段の青木さんと”牛マン”は別人ですか?

青木はまじめな開発者、”牛マン”は能天気でいじられキャラ、という棲み分けをしていたのですが、いまでは完全に混ざっていますね(笑)。ここ数年はあまり難しく考えず、自然体でやらせてもらっています。こんなキャラなので、ゲームセンターに行けばユーザーのみなさんが、「おう、牛マン!」とフランクに接してくれますし、そこでユーザーの要望やクレームも直接聞けるので、それをすぐに開発にフィードバックできる立場にありますね。
また、全国で実施している公式オフ会イベント”ボダオフ”では、よりリアルなユーザーの生の声を聞くこともできます。地方のイベント終わりには必ず参加者と一緒に食事に行くのですが、ユーザーさんが50~60人もいるところに行くと、さまざまな要望や意見が飛び交い、もうハチの巣状態です(汗)。最後は酔っぱらったフリをしますね……(笑)。
ただ、そういった生の声をしっかり受け止めて開発現場に持って帰るのが私の使命だと思っています。アーケードゲームは、こういった草の根的な活動が重要だと思います。また開発スタッフと話ができるということで、ユーザーのモチベーションも高まると思います。特に地方では喜んでいただける場合が多いですね。
『ボーダーブレイク』が2009年の稼働以来、ずっとユーザーのみなさんに支持されているということは、このような地道な活動が実を結んでいるのかもしれません。これほど長く稼働するとは、開発当初はまったく思ってもいませんでしたから……。

編集・執筆:ローリング内沢、杉山翔太郎

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