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深澤 光晴【前編】 深澤 光晴【前編】

CREATOR’S
INTERVIEW #008

深澤 光晴

ページ

代表作:『UFOキャッチャー』シリーズ(プロデューサー)

トップスペシャルコンテンツCREATOR`S INTERVIEW #008

ページ1/2

  • CHAPTER 1
  • CHAPTER 2
  • CHAPTER 3

CHAPTER 1

採用は面接と企画書の提出だけ、
そんなセガの男気に惚れました

-まずは、深澤さんの生い立ちについて教えていただけますか?

生まれも育ちも東京です。東京といっても、23区内ではなく西の方で、自然に恵まれたところで育ちました。
私が幼いころは、まだそれほどテレビゲームが普及していない時代で、近所の空き地に秘密基地を作ったり、土器を拾ったりなど、外を走り回って野生児的な遊びをしていました。驚かれるかもしれませんが、当時住んでいた地域には、土器が多く埋まっていたんです。
初めてテレビゲームに触れたのは、小学生のころ。任天堂さんから発売された家庭用ゲーム機『レーシング112』(1978年)を両親に買ってもらい、それで遊んだ記憶があります。まだ、ファミコンが発売されるまえです。
ちょうど時代的にアーケードゲームの『スペースインベーダー』(1978年)が流行っていましたが、小・中学生にとって(1プレイ)100円は高価でした。ですから、当時はアーケードゲームには手を出さずにいましたね。その後、1~2年経って近所の駄菓子屋に(1プレイ)20円や30円のゲームが出てきたころに、やっと遊びはじめたという感じです。
そんな感じでゲームより外遊びに夢中だったので、子どものころから「ゲーム業界に入りたい」と思っていたわけではありませんでした。小学生のときに、映画『戦国自衛隊』にすごく影響されまして、卒業アルバムには「将来の夢(職業):自衛隊」と書いたことはありますが(笑)、結局何をやりたいのか曖昧なまま大学まで進学しましたね。

-どのようなきっかけでセガに入社されたのでしょうか?

当時、さまざまな業種の”会社案内請求はがき”だけを集めた電話帳みたいな分厚い冊子(リクルート発行の就職情報カタログ)がありました。 それを見て、自分が興味を持っている会社にはがきを送る、というのが就職活動の一環だったのですが、まずは知っている企業の会社案内を請求しようとしたら、なぜかゲームメーカーばかりになってしまって(笑)。
その中から何社かゲームメーカーの入社試験を受けてみたのですが、そのうちの一社がセガでした。採用選考の中で、セガに度胸の強さを感じて入社を決めたんですよ。 まず、筆記の入社試験がありませんでした。いきなり面接となり、「2次面接のときまでにゲームの企画書を書いて持ってきてください」と言われまして。 当時はインターネットで検索もできない時代。知人にゲームを作っている人もいませんからゲームの企画書なんてどのように書けばいいかわかりませんし、そもそも、素人の学生が書く企画書をプロのゲーム制作者が本当に読んでくれるのだろうか、とびっくりしましたね。
とにかく手探りで、RPGの企画書を書いて持っていきました。さらに当時はパソコンではなく、すべて手書きです。こんなキャラクターで、こんなストーリーで、というのを必死に細かく書き込んだ記憶があります。
企画書を提出したら、その後しばらくして合格通知が来たんです。「面接のニュアンスと企画書の内容だけで採用するとは、なんて度胸のある会社なんだ」と思いましたね(笑)。現在の弊社の採用方法はこの通りではありませんが、心意気の部分は変わっていないかもしれませんね。
ちなみに、面接時に「好きなゲームは何ですか?」と聞かれたときに、他社のゲームばかり答えてセガのゲームを挙げ忘れていたことに気づき、帰り道にすごくヘコんだのですが、それも関係なく採用してくれたというのも嬉しかったです(笑)。

-セガ入社後は、どの部署に配属されたのですか?

当現在所属しているプロダクト研究開発部の前身にあたる、第4研究開発部(AM4研)です。この部署では、『UFOキャッチャー』を代表とする各種”エレメカ(おもにモニターを使用しないアーケードゲーム)”をはじめ、エアロシティやアストロシティなどといったアーケードゲーム筐体の設計・開発をしていました。
そこで最初に手掛けたのが、『ザウルスウォーズ』(1992年)というエレメカです。向かってくる恐竜を銃で撃ち、反対側にいる相手とお互いに押し返しあう対戦型のゲームです。自分でゼロから企画を立ち上げて作った作品ということもあり非常に思い入れがあります。
なお、エレメカはビデオゲームソフトの開発とは異なり、モニターのなかだけで完結しません。筐体のプロダクトデザインおよび配線や電気系統の設計、そしてプログラム作成など、特殊な工程を数多く踏みます。すべて”形”として作り上げなければならないので、そこに大きな違いがあると思います。
開発途中、メカむき出しの状態で動作を確認しつつゲームのイメージを固める”バラック”と呼ばれる作業があります。そこで、より良いゲームを体現するためにどのような動きをさせたらベターか、「あーでもない、こーでもない」と試行錯誤するのがエレメカ開発の面白いところでもあります。モノ作りが好きな人はとくに楽しめる作業だと思いますね。

CHAPTER 2

お店の人が思い描いたとおりの
"ゲーム設定"を実現できる筐体を作りたい

-『UFOキャッチャー』の開発に携わることになったきっかけは?

「『ニューUFOキャッチャー』(1991年)をリニューアルしよう」というタイミングで、スタッフのひとりとして召集されたのがきっかけです。それで誕生したのが、シリーズ5代目となる『UFOキャッチャー エクセレント』(1994年)です。
前作からいろいろと改良を重ねましたが、なかでも『UFOキャッチャー』の擬人化に挑戦したのが印象的でしたね。どういうことかと言いますと、クレーンのUFO部分を顔に見立てLEDで表情が変わるようにしたり、突然しゃべったりなど、『UFOキャッチャー』を人に見立てて設計したんです。
「ゲーム機に愛着を持っていただけると嬉しいな」というのが目的だったのですが、長期間プレイしないとイビキをかくような機能も入れており、早朝、まだ開店前のゲームセンターから『UFOキャッチャー エクセレント』のイビキが聞こえてくるなんてこともあって。少しやりすぎてしまったのか、次シリーズには擬人化の機能は薄まってしまいましたが、『UFOキャッチャー9』ではおしゃべりな部分は残っています。人気声優さんを起用した音声で、「やったッス~!」と一緒に喜んでくれたり「いっけ~!」などと応援してくれたりしますよ。

その後のシリーズ6代目となる『UFOキャッチャー21』(1996年)には関わっていないのですが、シリーズ7代目にあたる『UFOキャッチャー7』(2001年)以降は、ずっと『UFOキャッチャー』シリーズの開発に携わっています。
『UFOキャッチャー7』の開発時から、「プライズ機に特化したチームを作ろう」と専属スタッフが集められまして、そこからはチームを組んで現在の『UFOキャッチャー9』(2014年)まで開発を担当しています。 専属チームとなったのは、『UFOキャッチャー』シリーズの開発に必要なノウハウを大切に育て蓄積していくためです。クレーンゲームの機種は多々あれど、「クレーンを横に動かしてから、奥に動かす」というシンプルなルールは30年間変化していないんですよね。
つまり、もはやゲームとしては初代の時点で完成している。それを、より良く進化させ続けていくには、新しいアイデアに加えて、多くの経験や知識が必要になってくるんです。ですから、ひとつのチームとして専門的に携わることで、そのようなノウハウを蓄積できるようになった効果は大きいですね。

-『UFOキャッチャー』を開発する際、深澤さんが心掛けていることは?

『UFOキャッチャー』がビデオゲームと比べて大きく異なるのは、お客さまが遊ぶまえにゲームセンターを運営されている方が必ず手を加える工程があること。
プライズ(景品)の置き方や、アームのパワー設定、ツメの角度など、お店の方が各々に”ゲーム設計(遊び方のストーリー設定)”をするんですよね。「お客さまにワクワクドキドキを楽しんでほしい」という願いを込めて、お店の方々が思い描いた”ゲーム設計”をそのまま再現できるような筐体(『UFOキャッチャー』)を作りたいと、常日ごろ考えています。
そのために時間があれば、各地のゲームセンターに通って、どのタイプの機種が設置されているか、どんな使いかたがされているか、などをチェックするようにしています。

-セガにはプライズを企画・開発する、マーチャンダイジング部がありますが、そちらの部署との連携は?

はい、もちろんお互いに情報の共有などをしています。
年に数回開催される新作プライズの内覧会”プライズフェア”に、弊社のマーチャンダイジング部も出展するので、私も足を運んでプライズのトレンドを見るようにしています。
こちらから「今度こういう筐体(『UFOキャッチャー』)を開発するので、このようなプライズを作ってほしい」という要望を出すこともありますが、どのようなプライズを作るか基本的には、プライズ制作のプロであるマーチャンダイジング部にお任せしています。

CHAPTER 3

『UFOキャッチャー』は、
"イーグルキャッチャー"という名称になる予定でした

-1985年にリリースされた初代『UFOキャッチャー』についてお聞かせください。

初代開発には携わっていませんので伝え聞いた範囲ではありますが……。
『UFOキャッチャー』以前のクレーンゲームは、腰の高さほどのガラス張りの筐体を上から覗きこむタイプが多かったようです。
それを、お客さまから見やすくなるよう目線の高さにプライズを陳列させ、また男女ともに親しみやすさを感じてもらえるように筐体カラーをピンク色にしたのが、初代『UFOキャッチャー』です。
そもそもは、”プライズを鷲掴みにする”という意味で、”イーグルキャッチャー”という名称にする予定でしたが、「どう見てもクレーンのかたちは鷲じゃなくてUFOだろう」、ということで『UFOキャッチャー』になったそうです。当時の矢追純一さん(UFO研究家)に代表されるようなUFOブームも影響したのかもしれませんね。

-同じ『UFOキャッチャー』でも店舗によって、さまざまな運営がされていますが、運営方法に関する制限などはあるのですか?

マニュアルに記してある範囲で筐体使用方法の制限はしていますが、『UFOキャッチャー』に入れるプライズや運営方法については、基本的には各ゲームセンターを運営されている方々にお任せしています。 『UFOキャッチャー』の筐体そのものはセガの製品ですが、なかに陳列されるプライズは他社さんの商品もたくさんありますし、またいろいろと演出に凝った面白い運営方法を見ると、「ああ、こういう運営をしたいのか!」と、こちらとしても発見になります。
これまでで衝撃的だった運営は、とあるゲームセンターで”伊勢海老”が景品になっていたこと。それも、生きている状態で。いまでは衛生面などの問題もあり、こういったものが景品として扱われることは見かけなくなりましたし、推奨はできませんが……。是非は別として、これにはただただびっくりさせられましたね。

編集・執筆:ローリング内沢、村田征二郎

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