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佐藤 直行【前編】 佐藤 直行【前編】

CREATOR’S
INTERVIEW #009

佐藤 直行

ページ

代表作:『スターホース』シリーズ(プロデューサー)

トップスペシャルコンテンツCREATOR`S INTERVIEW #009

ページ1/2

  • CHAPTER 1
  • CHAPTER 2
  • CHAPTER 3

CHAPTER 1

さまざまなゲームに触れるうちに、
「自分でゲームを作れたら面白いかも」と思ったんです

―佐藤さんの生い立ちについて教えてください。

1970年生まれ、出身は宮城県です。小学校時代は野球、陸上、バスケットボールなどの部活動に勤しんでいました。
「運動神経がバツグンだったのか?」と聞かれるとそんなことはなくて、ただ育った場所が石巻市という田舎の港町で人口が少なく、大会が行われるたびに駆り出されていたんです(笑)。
中学校時代はバスケと陸上、高校時代は陸上と、だんだん数を絞っていきましたが、基本的にはわりとアウトドア派だったと思います。スキーとか釣りとかも好きだったし、ボーイスカウトにも参加していましたので。

―初めてゲームに触れたのは?

ちょうど小学校2~3年生のときに『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)が登場しまして、そのころからゲームセンターやバッティングセンターで、ビデオゲームを遊ぶようになりました。
とくにシューティングゲームが好きで、『ムーンクレスタ』(1980年/日本物産)、『エクセリオン』(1983年/ジャレコ)、『ゼビウス』(1983年/ナムコ)、『1942』(1984年/カプコン)など、いろいろな作品を遊びました。
また、『パックマン』(1980年/ナムコ)や『クレイジークライマー』(1980年/日本物産)などのアクションゲームにもハマりましたね。当時のビデオゲームは、だいたいひと通りはプレイしたと思います。
そして、中学1年生のときには新聞配達のアルバイトをしてお金を貯めまして、そのバイト代で当時シャープから発売されていたX1(エックスワン)というパソコンを買ったんですよ。当時のパソコン少年なら、誰でもが通る道だとは思いますが、『マイコンBASICマガジン』(電波新聞社)に掲載されていたゲームのプログラムを打ち込んで遊びましたね。 それとちょうど同じくらいの時期にファミリーコンピュータも手に入れまして、『スーパーマリオブラザーズ』(1985年/任天堂)など、当時流行っていたソフトはだいたいプレイしました。
ちなみに、セガ のハードは友だちが持っていたので、よく友だちの家で遊んでましたね。

―学生時代からゲーム業界での仕事を志望されていたのですか?

中学・高校のころは漠然と、「ゲーム関係の仕事も面白そうだな」程度には思っていました。
しかし、高校卒業後は、弁護士を目指すべく京都にある大学の法学部に入学しました。ただ、いざ法学を勉強をしてみると、「ちょっと違うな」と思って、ちょうどそのころ『ストリートファイターII』(1991年/カプコン)が流行っていたのですが、大学生活の4年間で改めてさまざまなゲームに触れるうちに、「自分でゲームを作れたら面白いかも」と考えるようになったんです。(※注釈)
※メーカー名はすべて当時のものです。

CHAPTER 2

ギャンブル・カジノゲームは
大きな夢を見られるのが何よりの魅力

―セガに入社することになったきっかけは?

大学の就職活動では、ゲームメーカーだけでなく、商社や航空会社などを広範囲で受けました。結果、セガと関西のゲームメーカーC社と、某商社から内定をいただきまして、いろいろ考えたのですが……ただ中学・高校と、よくゲームセンターに通っていたときにハマったのがセガのゲームだったんですよね。
『スペースハリアー』(1985年)、『ハングオン』(1985年)、『アウトラン』(1986年)など、体感ゲームの全盛期で、『アウトラン』は音楽にも惹かれてサントラCDも買ったくらいですから。また、当時のゲームセンターといえば、セガのゲームが圧倒的で勢いもありました。
そのような想いもあり、「自分も、そんなセガでゲームセンター向けのゲームを作れたら面白いかな」と、最終的にはセガを選びました。

『スーパーダイスクラップス』(1995年)

―当初はビデオゲームの部署を希望されていたのですね

そうです。ただ、入社面接で当時部長だった小口久雄さん(現・セガサミークリエイション代表取締役社長CEO)とギャンブルの話で盛り上がりまして、それがきっかけになったのかはわかりませんが、配属されたのは第6AM研究開発部(当時)というメダルゲーム開発の部署だったんです。学生時代、ゲームセンターにはよく通っていましたからメダルゲームもそれなりには遊んではいましたが、「メダルゲームの企画・開発を手掛けられるだろうか?」と、正直、不安や戸惑いもありました。

―入社当初はどのようなお仕事を?

第6AM研究開発部に配属されて初めて手掛けたのは、2個の大型ダイス(サイコロ)を転がして、その出目を予想する『スーパーダイスクラップス』(1995年)というダイスゲームです。
本作では、ゲームの仕様を考えたり、デバッグやバランス調整を行ったりなど、企画業務のお手伝いを担当させていただきました。

―最初は不安や戸惑いがあったということですが、実際にお仕事を手掛けてみて、その気持ちはどう変わりましたか?

そもそも、ギャンブルやカジノゲームは好きでしたし、また同じ部署に配属された同期も似たような趣味でしたので、「なんとか、やっていけるかな?」という気持ちにはなっていました。
そんなカジノゲーム好きな同僚たちと、よく一緒にプライベートでラスベガスにも行きました。トータルで何回行ったかわかりませんが、30回以上は行っていると思います。多い時期は1年に4回ぐらいは行っていましたから(笑)。
ラスベガスはカジノが有名ですが、単にそれだけではなく、いかにお客さまを喜ばせるか、街全体がエンターテイメントに溢れているのが魅力のひとつなんですよね。
そんな雰囲気に後押しされてか、「一発奮起して、セガでメダルゲームのヒット作を作ろう!」と思ったんです。

― ちなみに、ギャンブル・カジノゲームの魅力とは?

これは実際のギャンブル・カジノゲームでも、またメダルゲームでも同じですが、大穴を一発当てたときの爽快感と、「もうこれで、一生遊んで暮らせるんじゃないか?」という夢を見させてくれる部分ですかね。
このベット(賭け)で、もしかしたらメダル100万枚が手に入るかもしれない……宝くじにも近いんですが、そんな大きな夢を見られるのが何よりの魅力だと思います。

CHAPTER 3

本物の馬の動きを理解するために
乗馬学校にも通いました

―『スターホース』シリーズを手掛けることになったきっかけは?

メダルゲームと言えば、”競馬”、”ビンゴ”、”プッシャー(メダル落とし)”の3つが主流と言われていますが、そのなかでも競馬のメダルゲームは人気も高く、弊社としてもこれまでにさまざまな作品をリリースしています。
当時は、ちょうど『ロイヤルアスコットII』(1996年)という競馬ゲームを発売して1~2年経ったころ。「そろそろ新しい競馬ゲームを作ろう」という話がありました。
それまでにセガから出ていた競馬メダルゲームは、筐体中央部にトラックフィールドがあり、そこを馬の模型(メカ)が実際に走るというタイプが主流でした。しかし、これだと出走馬の数も限られますし、実在する競馬場や実名馬の再現もできませんでした。
新しく競馬のメダルゲームを作るとしたら、本物の競馬をどこまで再現できるかに挑戦したいというのが根幹にあったんです。そう考えたときに、模型ではなく映像(CG)で表現すれば馬のビジュアルも本物そっくりにできるし、どうせやるなら馬名や騎手名、競馬新聞に競馬場、ファンファーレもすべて本物にしたいな、と思ったんです。

―実際の競馬を再現するにあたり、どのような点にこだわりましたか?

とにかく”すべての要素を本物にしよう”という点ですね。
映像だけの競馬メダルゲームは過去にもいくつかありましたが、2Dのドット絵で描いた馬が動く程度で、実名馬や実競馬場を再現しているものはありませんでした。
『スターホース』の開発にあたっては、本物の競馬場や馬名を使わせていただくためにJRAさんや権利元に、またファンファーレも本物にするために、すぎやまこういち先生他作曲家のもとへ、さらに競馬新聞も実際のものを登場させたかったので関東競馬新聞協会さんにも交渉に行きました。
ほかにも、実際の競馬場やパドックを見るために、デザイナーと一緒に全国の各競馬場を回りました。
そして、「競馬を忠実に再現しようというのに、自分で馬に乗れないのは話にならないな」と思いまして、乗馬学校にも通いました。駆足まではできるようになり、馬の動きもより理解できました。

初代『スターホース』(2000年)ゲーム画面

また、馬自体の美しさや力強さを見るのも、競馬の魅力のひとつですよね。とくにサラブレッドは無駄な肉が一切ないですし、色艶もいい。考え抜かれた血統の配合や、高いレベルの調教の賜でもありますよね。
ですから、馬の再現にはとくに気を使いました。本物の馬の動きをより再現するために、ヘルメットにビデオカメラを付けたものを自作して、それを乗馬学校のインストラクターに装着していただき、騎手視点での映像を撮影しました。当時は、まだ小型のCCDカメラなんてなかった時代です。
さらに馬に餌を食べさせるシーンや水を飲ませるシーンなども撮影して、「これでもか!」というくらい徹底的にこだわったんです。
いまなら、もう少し手軽にモーションキャプチャーを使える時代ですが、当時はその技術が目が飛び出るほど高額だったんですよね。しかも人ではなく馬を走らせてのモーションキャプチャーですから。たしか1億円近くかかると言われて、さすがに泣く泣く諦めましたけど(笑)。

編集・執筆:ローリング内沢、村田征二朗

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