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田中 秀樹【前編】 田中 秀樹【前編】

CREATOR’S
INTERVIEW #014

田中 秀樹

ページ

代表作:『Virtua Fighter5』シリーズ『初音ミク Project DIVA Arcade』シリーズ(メインプログラマー)

トップスペシャルコンテンツCREATOR`S INTERVIEW #014

ページ1/2

  • CHAPTER 1
  • CHAPTER 2
  • CHAPTER 3

CHAPTER 1

子どもの頃は、目覚まし時計やラジオを
分解して遊んでいました

-幼少期はどのような遊びをしていましたか?

インドア派で、家で遊ぶことが多かったです。幼稚園~小学校低学年の頃は、レゴブロックで何かを作ったり、親の工具箱からドライバーを引っ張り出してきて、目覚まし時計やラジオなどを分解したりしていました。当時の家電は構造がシンプルで簡単に分解できたんですよ。

-分解した後は自分で組み立て直すのですか?

いえ、当時の知識では組み立ては難しかったので、バラす専門でした(笑)。「どのような構造で動いているのか」ということを理解するのが楽しかったんだと思います。
また、私は1973年生まれなのですが、ちょうど小学校3~4年生のころにガンプラ(『機動戦士ガンダム』のプラモデル)が流行りまして、それにもはまりましたね。説明書どおりに作るのではなく、好みでない部分を埋めたり削ったり、動かない関節を動かせるようにしたりと改造して遊んでいました。

-初めて家庭用ゲーム、あるいはパソコンに触れたのはいつですか?

中学生のときに、親に富士通のパソコン(マイコン)”FM-NEW7″を買ってもらったのが初です。ちなみに家庭用ゲーム機は、セガ入社後にセガサターンを購入するまで、友だちの家で遊ぶことはあっても、自分で所有することはなかったです(笑)。家庭用ゲーム機よりもパソコンにはまってしまったんです。

-パソコンを手に入れて、すぐにプログラミングを始めたのですか?

いえ、最初は市販のゲームで遊ぶだけでした。『プラズマライン』(1984年/テクノソフト)というレースゲームでずっと遊んでいました。すでに当時、ポリゴンのリアルタイム描画を取り入れていまして、技術的にはかなり高度なゲームでした。
とはいえ、同じゲームだけだと飽きてきたのですが、当時のパソコンゲームは、1本4000~5000円と高価で気軽に買えず。
そこで、「買えないのなら自分で作ってしまおう」と、”FM-NEW7″に附属していたBASICのマニュアルを擦り切れるほど読み込んで……その後は他のパソコン少年と同様、『マイコンBASICマガジン』や『ログイン』といったパソコン誌に掲載されていたプログラムリストを打ち込んで、ゲームの作り方を学びました。

-ご自分でゼロからゲームを作る機会もあったと思いますが、何を作ったか覚えていますか?

たしか最初はRPGだったと思います。中学校時代、パソコンを持っている友だちも増えていきまして、みんなでプログラムの見せ合いをしたんです。 当時の人気のあったRPG、『ザ・ブラックオニキス』(1984年/BPS)や、『ファンタジアン』(1985年/クリスタルソフト)に影響されまして、それらを真似したゲームを作りました。いま思うと、到底、人に見せられるようなプログラムじゃありませんけれど(笑)。

CHAPTER 2

セガとの出会いは
"セガ・スーパーサーキット"。

-セガという会社を知ったきっかけは?

きちんとセガを意識したのは、高校時代。横浜博覧会(1989年)に出展された”セガ・スーパーサーキット”です。小型カメラが内蔵されたラジコンカーを遠隔操作し、ジオラマのコース内を走らせるドライブアトラクションでして、『アウトラン』のような大型筐体に乗って遊ぶんです。あれは当時としてはとても斬新で、印象に残りました。

-博覧会にはそれを見に行ったのですか?

そのためだけに行きました。”セガ・スーパーサーキット”を体験したあと、満足してすぐに帰ってしまったので博覧会のほかの展示はまったく記憶にないです(笑)。

-当時は、将来どのような職業に就きたいと思っていましたか?

「何かしら物を作りたい」という気持ちはあり、また、「プログラムで実現できることはとても幅広い」と感じていましたので、漠然とプログラマーになりたい、という考えはありました。

-初めてのセガとの出会いの後、セガへ入社するまでの経緯は?

大学時代、授業の合間にゲームセンターに入り浸って、『バーチャレーシング』(1992年)にどっぷりはまっていたのですが、そんな時、人づてに「セガの開発部門でアルバイトしてみないか」と声をかけてもらって。「このゲームを作った会社で働けるのか!」と、すぐアルバイトすることにしました。

-『アルバイト時代はどのようなお仕事を?

第二AM研究開発部(現/セガ・インタラクティブ 第二研究開発本部)に配属され、最初は倉庫整理やネットワーク配線工事、開発機材の調達、機材のセットアップなど、開発環境を整える仕事を担当しました。
直接的なゲーム開発とはまったく無縁で、プログラムもほとんど書かず。開発ツールのメンテナンスぐらいはしていましたが、お手伝いの範囲でしたね。一応プログラマーとして入ったつもりだったんですけど(笑)。 しばらくは開発環境の整備を担当しまして、その後セガサターン版『バーチャファイター』のCDライティング(いわゆるCD焼きと言われるデータ書き込み)を担当することになりました。
当時の開発環境はUNIX系システムでしたので、Windows PCが一切なかったんです。しかし、セガサターンのCDを作るのにはWindows PCが必要でした。そこで、「Windows PCに詳しいスタッフはいないか?」ということで私に白羽の矢が立ったんです。
UNIX系システムしかなかったところにWindows PCを取り入れて、セットアップから何からすべて行いましたね。これが、アルバイト時代の大仕事だった気がします(笑)。

CHAPTER 3

"思ったことを形にできる"のが、
プログラミングの最大の魅力

-その後、アルバイトから社員になられたきっかけは?

現在のセガは、アルバイトから契約社員および正社員にステップアップできる社員登用制度が整備されていますが、当時はそんな制度があるのかどうかもわからず、大学卒業のタイミングで新卒入社採用に応募しました。

-既にアルバイトとして働いていることで他応募者より優遇されましたか?

さすがにそこまで甘くはなく(笑)。ただ、面接についてはアルバイト中の出来事や担当業務を聞かれましたので、ほかの方とはちょっと違う面接内容だったと思います。そして面接の最後には、「では、早く『バーチャファイター』のCD焼きの作業に戻ってください」と言われました(笑)。

-採用試験に合格し、社員として改めて入社されたわけですが、配属は引き続き、第二AM研究開発部となったのですね。入社当初はどのような業務を?

プログラムを手掛けたかったので、「プログラムを書かせろ」、「ゲームを作らせろ」とうるさく言い続けていたら、セガサターンの『バーチャファイター CGポートレートシリーズ』(1995年)のメインプログラマーを担当することになりました。
メインプログラマーと言いましても、作品内容的にはキャラクターのCG集ですので、プログラマーも私ひとりしかいませんでしたが。「これでもまかせて黙らせるか」ぐらいの勢いで私に決まったのかもしれません(笑)。

-そもそもプログラムは独学で勉強されたのですか?

独学です。大学でプログラムの授業もありましたが、「プログラムとは何か?」というような初級レベルの授業でしたので、すでに知っていることだったんですよ。 セガに入社してから、ゲーム制作やプログラムに対するアプローチなどを教えていただいた”師匠”と呼べる先輩はいましたが、プログラム自体は自分で勉強しました。 あえて、プログラムの先生がいるとすれば、神保町の本屋さんですかね。学生時代はお金がなかったので、立ち読みばかりでしたけど(笑)。また、大学の図書館にも随分お世話になりました。

-そこまでプログラミングにのめり込んだ理由は何でしょうか?

誰でも平等に、”思ったことを形にできる”のが、プログラミングの最大の魅力です。
パソコンは、プログラムを動かす単なる箱(ハードウェア)にしか過ぎなくて、プロもアマも関係なく、同じ箱の中では同じ条件で戦えるはず。
それなのに、自分がプログラムした自作ゲームと市販のゲームとではまるでクオリティーが違いました。
「同じ箱を使って、似たようなプログラムが書けるのに、なぜ自分より良いものが作れるのだろう?」というのが、すごく引っ掛かって。
同じ条件なのに同じものが作れないのは納得がいかなかったんですよ(笑)。プログラミングにのめり込んだのには、このような負けず嫌いの気持ちが大きかったと思います。

編集・執筆:ローリング内沢、村田征二朗

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