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ローリング内沢のセガ先輩のはなし

先進技術で時代を先取! たまに時代を先取りし過ぎてご愛敬!?
そんなセガを「先輩」に例え、愛をこめてローリング内沢が
自由な切り口で語る不定期連載コラム。

トップスペシャルコンテンツローリング内沢のセガ先輩のはなし 第8回

第8回
ブンブン丸と振り返る
『バーチャファイター』ブーム【前編】

1993年、ゲームセンターに突如現れた風変わりな格闘ゲーム、『バーチャファイター』。板を張り合わせてできたキャラクターたちが、まるで生きているかのようになめらかに動き回る。初めて目にしたとき、そんなビジュアルに衝撃を受けたのを覚えている。

当時のゲーマーたちはその風変わりなゲームに群がり、”『バーチャ』貧乏”という言葉が生まれるほどに100円玉を注ぎ込んだ。「ウン十万円も使った」なんてプレイヤーもざらにいたし、「家に筐体と基板を購入した」という強者も現れた。

『バーチャファイター』紹介ページはこちら

初代『バーチャファイター』ゲーム画面

そして、ゲームの人気とともに、”新宿ジャッキー”氏、”池袋サラ”氏といった、『バーチャファイター』の名プレイヤーたちが脚光を浴び、大きな社会現象へと繋がっていく。

これまで、ゲームそのものが盛り上がったとしても、プレイヤーが注目されるなんてことは、あまり見られなかったこと。そういう意味では、新たなゲーム文化が生まれた瞬間なのかもしれない。

もちろん当時、筆者も少なからず『バーチャファイター』を楽しんだけれど、どちらかと言えばブームの中心から離れたところで賑やかしていただけ。それでも、このムーブメントの大きさが”これまでにないもの”ということは理解できた。

昨今の若いゲームファンたちのなかには、『バーチャファイター』ブームを知らない人も多いと思う。そこで、ふと、「あのときの”熱狂”を改めて聞き伝えするのも面白いかな」と思い、当時の『バーチャファイター』ブームの中心地にいた、”ブンブン丸”氏に話を伺うことにした。

前後編の2回にわけて紹介する。3D格闘ゲームの先駆者として、ゲーム業界および世間を一変させた、セガ先輩(敬意を表して、こう呼ぶ)の功績を垣間見てほしい。

ブンブン丸こと、本名・篠原元貴氏は、週刊ファミ通編集部時代の後輩である。現在は、筆者と同じフリーランスとして、ゲーム関連のイベントのMC、実況・解説、運営をはじめ、ライターとしても活躍している。

当時は、『バーチャファイター』の名プレイヤーのひとりとして、さきほど名前を挙げた新宿ジャッキー氏や池袋サラ氏などとともに、(『バーチャファイター』の)”鉄人”と呼ばれていた。

ブンブン丸:「『バーチャファイター』をプレイするまえは、『ストリートファイターII』にハマっていたんです。地元のゲームセンターに『バーチャファイター』が入荷されたときも、『ストリートファイターII』を遊びつつ、ちょこちょこと『バーチャファイター』をプレイしていた程度。なお、『バーチャファイター』を初めて見たときは、キャラクターのモーションがすごくキレイで驚きました。昔から格闘技&プロレス観戦が好きなんですが、だからこそ流れるようなパンチやキックの動きのビックリしたんですよね。さらにポリゴンのグラフィックがとてもエッジが効いていてキャッチーだったじゃないですか。初代『バーチャファイター』のデザインはいま見てもかっこいいと思いますよ」

『バーチャファイター』をプレイする当時のブンブン丸。

そう語るブンブン丸が『バーチャファイター』にどっぷりとハマっていくことになったきっかけはこうだ。

ブンブン丸:「そんななか、たまたま読んだゲーム雑誌に、”新宿のゲームセンター、スポット21が熱い”と書かれていて、そこには『バーチャファイター』で、1コイン98人抜きを達成した新宿ジャッキーという凄腕プレイヤーが紹介されていたんです。ぜひ新宿ジャッキーと対戦したいと思って、スポット21に通い始めたんですよね」

そこで当時、『週刊ファミ通』の編集者であった新宿ジャッキーこと羽田隆之氏(筆者とは当時同僚だった)と出会い、ブンブン丸は、週刊ファミ通編集部にスカウトされるのである。

なお『バーチャファイター』ブームに本格的に火が付いたのは、1994年にリリースされた『バーチャファイター2』あたりだ。

ブンブン丸:「どのくらい盛り上がっていたかといいますと、平日の夜、スポット21にギャラリーが100人以上集まるんですよ。しかも週末の夜になれば、店に入れないくらいにパンパンになる。腕に自信のあるプレイヤーたちが地方から遠征にも来ていましたね。ちなみに、顔の知られた有名プレイヤーが店に訪れると、”モーセの十戒”じゃないですけど、ギャラリーがサーッと左右に避けて、筐体までの道が出来るんですよ。あれは、すごかったですね(笑)。また、秋葉原にあるゲームセンターのイベントでは1000人くらいの見物客が集まったときもありました。ゲームセンターが入っているビルの外に大きな街頭モニターがあるのですが、そこに映される『バーチャファイター』の大会映像を、道行く人がみんな立ち止まって見てましたね。まるで、力道山のプロレスの試合を街頭テレビで見ているかのように(笑)」

そんな大きなムーブメントは、ゲームセンターの雰囲気さえも変えていった。『バーチャファイター』の筐体のまわりはまるで格闘場のようで、それこそ強いプレイヤーは本当に尊敬されていた。まるで格闘技の選手や、武道の達人のように。

なお余談だが、キャラクターのモーションのリアリティーを追求するため、当時、本作品のディレクターであったセガの鈴木裕氏は、『バーチャファイター2』の制作にあたり、その動きを学ぶため中国取材を敢行。自ら体を張って中国武術を体験してきた、というのは有名な話だ。だからこそ、格闘ゲームというよりは格闘シミュレーターに近い、リアリティーある動きが生まれたのだろう。

『バーチャファイター2』紹介ページはこちら

東京・秋葉原にあるセガのゲームセンター(当時)。
『バーチャファイター』の大会にに多くの見物客が集まった。

話を戻すが、ブンブン丸も『バーチャファイター』の”鉄人”のひとりとして、多くのゲーマーたち尊敬され、さまざまな活躍をしていた。

ブンブン丸:「当時は、セガ系列のゲームセンターが主催していた”100人組み手”という大会によく呼ばれました。これはボクひとりと100人が対戦するというものでして、北は北海道から南は沖縄まで各地のゲームセンターを巡業しました。勝率は8割切ることはなかったです。最高は96人勝ちだったかな。また、『バーチャファイター』大会の解説者の仕事や『バーチャファイターマニアックス』(アスペクト・刊)という攻略本の制作を手伝ったりとか。それと攻略ビデオはかなりの数を手掛けましたね。当時のビデオの売上ランキングで、映画やドラマをブッちぎって1位から8位くらいまですべて、ボクが関わった『バーチャファイター』のビデオだったときもありました(笑)」

と、いまでは考えられないほどの熱狂感があった。そして、詳しくは”後編”(次回更新)でお伝えするが、このムーブメントはゲームメディアのみならず、一般メディアまでが取り上げるようになっていく。このような現象も当時としては非常に珍しかった。

なお、”後編”ではブンブン丸という名前(通り名)の由来も詳しく語ってもらっている。こちらも、ぜひ楽しみにしてもらいたい。

後編はこちら

当時の『バーチャファイター』"100人組み手"の様子。
(※記事公開時より写真の加工を一部変更いたしました。2017.06.13)

文・ローリング内沢/2017年06月02日掲載

ローリング内沢

1970年、東京生まれ。ライター、編集者、ゲーム批評家。
ゲーム情報誌の編集者を経て、2000年4月よりフリーランスとして活動。
得意分野はゲーム、クラブミュージック、グラフィックデザインなど。
趣味が高じて、クラブDJとしても暗躍中。
イラスト:荒井清和

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